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User:Bamse/Fujiwara no Hirotsugu Rebellion/RS1

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藤原広嗣の乱の基礎的考察 A Basic Research on the revolt of Fujiwara no Hirotsugu -栄原.長両氏説に接してー    北條  秀樹 Hōjō Hideki

Introduction

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天平十二年八月、僧正玄肪法師、右衛士督下道朝臣真備を弾劾する上表文の提出に端を発する藤原広嗣の乱は時の天皇.皇后の近親者という広嗣の出自、大宰少弐たる身の反乱という衝撃性に加え、反乱の過程が具体的に語られている史料としては古代を通じても稀なものであるだけに、これまで多くの論究がなされている。その論点は、単に奈良時代政治史上の一大事件として概観するだけにとどまらず、反乱軍及び征討軍の軍事力構成、鎮.営の性格と所在地、隼人参加の意味、郡司層の関与とその兵力、大宰府の軍事力等々から、古代における筑紫内政権との関係にまで及び、まことに多岐多彩な内容を有している。(1)

The Hirotsugu Rebellion, started in Tempyou 12, 8th month by a submitted memorial impeaching the Buddhist high priest Genbou and Kibi Makibi.

しかし研究史を通観してみると、多岐なるが故に意外に全体像が不明確なことに気がつく。また乱の過程そのものについても諸説紛々たるのが実状であろう。そのため、かねてより整理すべき機会をうかがっていたところ、近時、栄原永遠男、長洋一両氏の論考に接 し、また機会も与えられたため広嗣の乱の再検討を行なってみた。本稿ではその中でも乱の過程を中心に若干の私見を述べてみたいが、主として問題となるのは次の四点である。

Sakaehara Towao (栄原永遠男)

  • 登美.板積.京都三鎮の陥落させた勢力
  • 遠賀郡家で広嗣が国内兵を徴発した時期とその内容
  • 広嗣、綱手、多胡古麻呂が三道より進発した時期と起点及び目的地
  • 板積河畔に結集した広嗣側勢力の構成

...main issues discussed in this paper:

  • influence of the forced capitulation of Tomi, Itabitsu and Miyako camps
  • the time of the requisition of "domestic" soldiers at Onga district office
  • three roads taken by Hirotsugu, Tsunate, Tago no Kamaro; starting point and destination
  • organization of Hirotsugu's force concentrated at the Itabitsu riverside

Historical records (史料)

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右を論ずるにあたり、行論の便宜上、論点に関する続紀の記載を掲げておく。

[Shoku Nihongi entries of: 9/24, 9/25, 9/29, 10/9]

史料を続紀に限り、かつ同一条をいくつかに分類したのは既に坂本太郎氏の指摘が存する故である。即ち坂本氏は広嗣関係史料として引用されることの多かった『松浦廟宮本縁起』に関し、おそらくは鎌倉時代後半、元冠以後を上限とし鎌倉末までに成立した神宮知識無怨寺の自己主張・権益保護を目的としたものであり、文中の広嗣に関する人物評・上表文・乱の経過などはいずれも後世の造作であり真正なものとは認められないとされた。又、続紀についても後世の編纂書であるが故の編纂上の操作が加えられているとする。具体的には、大将軍大野東人の報告記事の日付は報告書が政府に到達した時点のものであり、事項の生起は当時の九州ー並塑泉間馳駅の日数からして三~四日前であること、「又」字で連がる事項は本来別個の報告書であったものを、続紀編纂時に同類事項として同日条に合叙した可能性が強いこと等を論証された。

右の指摘はいずれも至当と考えられるが、広嗣の乱に関する先行諸説の多くは、氏説以後にあってもこの点にあまり留意せずに叙述されている如きである。その中にあって近時栄原氷遠男.長詳一両氏は坂本氏の視点に従い、乱の時間的経過を克明に考察された。(3) 特に栄原氏は詳細に前後関係を復元整理され、もはや付加すべき点は無きかの如くであるが、なおいくつかの疑問点が残るように思われる。いささか屋上屋のさらに屋との感なきにしもあらずだが、両氏 樹説に導かれつつ今一度乱の経過をふりかえってみたい。

Study of various theories (諸説検討)

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まず先行諸説を検討しつつ最も詳細な跡づけをされた栄原氏説の結論部分により、氏の復元案を示しておこう。

  • (イ)広嗣は八月下旬に上表文を提出、八月二十九〜三十日には挙兵にふみきる。
    • In the last third of the 8th month, Hirotsugu submits a memorial to the emperor. On the 8th month 29th-30th day he raises an army.
  • (ロ)広嗣は三軍を編成し、三道より鎮所をめざし進撃を開始した。
    • Hirotsugu forms a great army; and begins to advance aiming for military barracks along three roads.
  • (ハ)九月中旬、広嗣は遠珂郡家に前進基地として軍営を設け、筑前国内の兵を徴発した。
    • In the middle of the 9th month, Hirotsugu establishes a military camp at Onga district office as an advance base; and requisits soldiers from Chikuzen Province.
  • (二)広嗣軍が鎮所に到達したとき綱手・古麻呂両軍は未到であった。豊後国経由の綱手軍はまもなく合流するが、古麻呂軍はついに合流しえなかった。その時期は三鎮陥落以前である。
    • When Hirotsugu's army had reached the camp, the armies of Tsunate and Tago no Kamaro had not reached it. Tsunate's army going via Bungo Province lacks time to link up; Tago no Kamaro's army links up in the end. This happened before the surrender of the three camps.
  • (ホ)政府軍は関門海峡をわたり、九月二十〜二十一日ごろ三鎮を陥落させ、広嗣軍は惨敗する。
    • 9th month, ca. 20th-21st day; government troops cross the Kanmon Straits and force three camps to surrender; Hirotsugu's army is overwhelmingly defeated.
  • (へ)その後、政府軍の後続部隊は九月二十一日、二十二日と上陸して兵力を増強し、板積鎮に幕営を定める。
    • After that, the government troop's trailing forces land on 9th month 21st-22nd day and reinforce the military force; a military camp is established at Itabitsu camp.
  • (ト)三鎮陥落.広嗣軍惨敗により、豊前国の郡司層は兵を率い、続々と政府軍に来帰する。
    • Due to the surrender of three camps and Hirotsugu's defeat; the soldiers commanded by Buzen Province's district office surrendered one after another to government troops.
  • (チ)広嗣はその後体制を立て直し、十月五、六日ごろには板積河西岸に進出し政府軍と対峙するが、佐伯常人との応酬に敗れ、総崩れとなる。一方、長洋一氏説はどうか。氏説の主題は周防灘沿岸郡司層の動向の位置づけであるため、必ずしも栄原氏の如く克明に経過を追ったものではないが、大よそ次の如く整理されよう。
    • After that, Hirotsugu is rearranging the order/system/organisation; around the 5th/6th day of the 10th month, he steps forward to Itabitsu river's west bank confronting the government troops, but... Saeki Tsunehito... Suo-nada (=western part of Seto Inland Sea) coast, 郡司層,...
  • (リ)広嗣は九月中旬遠珂郡家に軍営を設け、国内兵を徴発せんとする。
    • In the middle of the 9th month, Hirotsugu establishes a military camp at the Onga district office and attempts requisition of domestic soldiers/warriors.
  • (ヌ)九月二十日ごろには周防灘沿岸郡司層の兵力によって三鎮が陥落する。
    • ca. 9th month, 12th day on Suo-nada (=western part of Seto Inland Sea) coast, 郡司層, three camps surrender due to military force.
  • (ル)右をうけて二十一、二日に政府軍が渡海し三鎮を掌握する。
    • on 21st/22nd day government forces cross the sea and seize three camps.
  • (ヲ)広嗣は事態を回復せんとして三道より兵を発し三鎮に向うが、最終集結地は板樌鎮所であった。以上両氏の結論を要約整理したが、一見して大きなくい湋いをみせている部分が、何箇所かある。以下節を画して検討してみよう。
    • Hirotsugu in an attempt to improve/rehabilitate the situation had soldiers depart along three roads towards three camps; at last they meet at Itabitsu camp....

(1) Offence and defence of three camps (三鎮攻防)

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まず三鎮を攻略した勢力であるが、栄原氏は中央政府軍とする(ホ・へ)のに対し、長氏は京都郡大領桔田勢麻呂など豊前ないし周防灘沿岸の在地諸勢力であった(ヌ・ル)とする。栄原氏が中央政府による攻略とされた論拠は明らかではないが、九月廿四日条を素直に読めば、事態はABCの順に進んだとみるのが自然であろう長氏は三鎮兵士が、さしたる戦闘の形跡もなく生虜されたのは、「当土の兵」よりなる鎮兵と攻撃側の郡司軍との地縁的血縁的融合によるものであるとされたが、妥当な見解であろう。

さらに付加すれば、二十一〜二日に渡海した政府軍は四千人強であり、大将軍大野東人は後続を待って長門に留まっていた(史料BC)。これに対し板積河合戦時の政府軍は六千余人であり、郡司等の来帰を考える古ご十一・二日に渡海したのは当時の中央政府軍のほとんど全てであったと思われる。とすればそれ以前に三鎮攻略を行ないうる政府軍を算出する余地はない。郡司層の活動により三鎮が陥落した後、政府軍が上陸し、板積を本営としたとみるべきである。

Furthermore in the case of annexation, there were a little over 4000 government troops crossing the sea on 21st/22nd day. Commander in chief Ōno no Azumabito was trailing and waited and remained in Nagato (Province?) (BC).

右に関連し、三鎮攻防戦において広嗣・綱手軍が惨敗したとする栄原説(ニ~ト)も否定的である。氏は板積河合戦時の広嗣軍一万許騎と贈唹君多理志佐の証言(史料J)にある広嗣軍五千・綱手軍合致すること・逃亡において両者が行動を共にしたとみられることにより、両者の合流を想定し、豊後国より往った綱手が板積鎮にて広嗣とA。流しうるには道筋からみて三鎮陥落以前でなくてはらないとされた。しかし氏説にはやや混乱があるんだと思われる。広嗣軍一万とは十月六日ごろとみられる板積河合戦時であり、九月二十日ごろに想定される三鎮陥落時に適応するものではない。そもそも「三鎮攻防戦で惨敗した」反乱軍が、進発時の軍容をそのまま半月後まで維持しえたであろうか。疑問と言わざるをえない。

三鎮陥落に際しては特記すべき戦闘の行なわれた形跡が存しないこと既述の如くである。さらに鎮長・大小長など広嗣・綱手に比してはるかに小者の存在まで追求、報告されている。総司令官たる広嗣・綱手が参戦していたのなら、続紀にそのことが記されないのはいかにも不自然であろう。以上により、広嗣軍と綱手軍は三鎮陥落以前に合流し三鎮の防備を固めたが中央政府軍によって惨敗した、との栄原説,は首肯し得ない。

(2) Onga military camp (遠珂軍営)

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次に遠珂軍営の位置付である。広嗣が遠珂郡家に軍営を設け国内兵を徴したのが九月半ぽであることは両氏とも一致している・間諜の報告が二十四日条にかけられていることよりして、たとえ続紀編者による合叙があったとしても、報告内容は探索に要した日数を考えれぽ九月二十日以前の事情であること確実である。しかし広嗣の行動過程における位置づけは、三軍進発時の理解と相侯って、やや複雑である。

まず遠珂軍営を三軍の発進地とみる先行諸説に関しては、(5)栄原氏によりその方向性に問題ありとの指摘が為されている。遠珂より鞍手道゜田河道を往くのでは大宰府に行き着いてしまう。豊後国経由に至っては論外である。

次に徴発せんとした国内兵については、多くの説は軍団兵士とし、広嗣率いる筑前国の兵と同じとしているが、横田健一氏は「すでに豊前の登美、板積、京都三処の営兵一千七百六十七名が生虜にされたあとであるから、軍団・鎮の専門の兵士というよりは、民間から徴発する一兵士経験のある百姓兵であ.たとされる.三鎮兵士千七百余名が生虜られたあとであるからという氏の論拠は、すでに見た如く遠珂軍営にて広嗣が兵を徴発していたのが九月中旬、即ち三鎮陥落前であることにより従いえない。しかし民間から兵士経験者を徴発したとの結論部分は魅力的である。

贈唹君多理志佐の証言(史料J)によれば広嗣は大隅・薩摩・筑前・豊後等国軍五千人を率いるとある・弘仁四年八月九日官符(7)によれぽ、筑前国は四団四千人、豊後国は二団一千六百人の軍団兵士を有している。この数が天平期に適用しうるとすれば、筑前.豊後両国兵は計五千六百人である。大隅・薩摩はおそらく隼人兵であろうが、板積河合戦時に「降服隼人二十人」と記されていることは、それが隼人軍の全部ではないにせよ、そう多数ではなかったことを想定させ㍗とすれば広嗣の率いた筑前・豊後の兵は、その定員の大部分であった可能性が強い。そうであるなら遠珂軍営で徴発すべき(筑前)国内兵は、正規兵としてはほとんど残っていなかったのではなかろうか。第一、挙兵して半月以上も経てから軍団兵士(それもお膝下の筑前兵)を召集するのでは、いかに広嗣が無計画であったにせよ度が過ぎよう。 この国内兵とは正規兵以外の、いわば予備役兵士をも徴発せんとしたと解すべきである。

遠珂軍営における広嗣の行動では今一つ、蜂火を挙げて兵を徴発し点が注目される。古代において戦時に峰火を用いたのは、この時のみしか知られていない。通常、このことを以って律令制下軍団召集における峰火の使用が論じられるが、私見の如く予備役的兵士を徴発しのであれば、軍団とは直結しない。軍防令を検ずるに、蜂が軍団召集の手段と解される条文は存在せず、もっぱら蜂の使用法を定めるのみである。滝川政次郎氏によれぽ日本の怪制は唐に比して粗漏であり、かつ海外よりの敵襲を報ずることを目的としたものであるという。(9)事実文献上峰の設置が認められるのは高安.高見.春日等の畿内を除けぽ出雲・隠岐・対馬・壱岐.筑前.肥前.豊後等.北部九州及び山陰道に限られる。対蝦夷用の蜂設置が認められないことと併せて、烽火が国内有事に備えたものではなかったことを想定させるに充分である。(10)とすれば広嗣が烽火を用いて国内兵徴発にあたったことは、改めて検討されねぽならないことであるが、ことは広嗣の動員権、ひいては大宰府の軍事権にも関与する問題であるため、いずれ稿を改めて論ずることにし、ここでは問題点の指摘のみにとどめる。

さて遠珂軍営に関しては、これを鎮所とみなす説もあるが、このことは三軍進発時の問題と密接に絡む故、そちらで考察したい。

(3) 贈唹君多理志佐証言

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次に広嗣、綱手、多胡古麻呂に率いられた三軍の問題に移ろう。先に整理した如く、この件に関しては栄原氏(ロ)と濠氏(ヲ)では大きな異なりをみせている。長説は小田富士夫氏の説をうけて三軍進発を三鎮陥落後とするが、栄原氏は通説どおり挙兵時のこととする。問題は多理志佐証言の解釈如何である故、今一度史料Jを詳しく検討してみよう。

多理志佐証言の検討は、証言、が為された時期と証言内容の時期との確定につきる。まず証言がなされた時期であるが、これは板積河合戦の直後とみるべきである.違志佐は翌天平+三年閏三月乙卯に外従五位下を授けられているが、これは広嗣の乱に関しての叙位である。もし多理志佐の降服がA.戦後智を経た時期であれば、むしろ残党として処罰されることはあっても外五位をもって褒賞されることはあるまい。芳、合戦の前旬日蕩ること皇えられない。彼の証言内容は反乱軍の軍事力構成を知りうる唯一のものである。遠珂郡家における広嗣の動向に比しても格段の重要性を有す情報が事前に入手しえたのなら、大野東人は当然即座に奏言したであろうし、続紀編者もまた特記したにちがいない。彼の降服を河中泳来の隼人あるいは「降服隼人二十人」の中に含む必要は必ずしもないが、合戦中をも含む広嗣軍潰走の前後であったことは疑いえない。従ってその証言の時期は、おそくても合戦直後でなくてはならない。

次に証言内容の時期である。証言内容は広嗣、綱手、古麻呂率いる三軍の進発に関する部分と、「但広嗣之衆到来鎮所 綱手多胡古麻呂未到」という「鎮所未到」に関する部分とに分けられる。時間的には前者と後者との間に何日かの隔りがあろうが、いずれにせよ現存史料をもってして語る場合には、降服の直前までに多理志佐が知り得た情報とみる他はない。即ち「鎮所未到」とは板積河合戦直前の状況とせざるをえまい。勿論、続紀編者が「鎮所未到」以後の証言を採録しなかった可能性は十分にあるが、それを前提に立論するのは控えるべきであろう。

贈唹君多理志佐の証言時期を右の如くに確定した上で「三軍進発」「鎮所未到」をいかに位置づけるべきであろうか。

(4) 鎮所

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まず鎮所についてであるが、ほとんどの説は板積鎮をして鎮所に比定している。栄原氏もまた「三鎮(もしくはその一つ)」と慎重な言いまわしをしながらも、論旨からみれば板積鎮を想定していることは明らかである。これに対し久米邦武は遠珂軍営を想定しているようである。栄原氏は久米説に対し「そうすると、少なくともB軍(ー綱手軍-筆者注)は、中央政府軍の上陸が予想される企救半島付近に到達しながら、そこに布陣することなく・その一帯を通過してしまって、いわぽ敵に背をみせながら遠珂郡家へ移動することになる。これは不自然」として遠珂郡家説を否定された。しかし、氏が「企救半島付近に到達しながら」とされた根拠は不明ながらも、豊後国経由では板積鎮(現在の北九州市小倉北区到津に比定される)に向うのも、遠珂郡家(遠賀川中流域と推定されエ『)に向うも・方角ちがいという点においては大同小異である。また逆に鞍手道は勿論、田河道も遠賀川中流域には至便な方向である。

一方長氏は「鎮」という語は「政府へ抵抗するものを抑圧するための拠点という意味で使用される性格」のものであるから、「反乱軍の拠点を政府側の記録で鎮ということはなかった」(16)として、間接的ではあるが遠珂鎮所説を否定された。しかしこれもまた論拠たり’えないと思われる。続紀には「広嗣於遠珂郡家造軍営」とあることは既に再三述べてきたが、「軍営」は軍防令にある立派な律令用語である。明らかなる反乱軍の拠点を律令用語をもって「軍営」と称する以上、「鎮所」の語を反乱軍側に用いても不思議はない。

以上、栄原、長両氏の論拠では久米説を否定しえないと思われる。 板積鎮を鎮所とするには別の論拠が必要である。

鎮所の語は他に天平六年出雲国計会帳と陸奥国におけるそれとが知られている。前者は天平四年八月山陰道他四道に設置された節度使の・石見国における滞在地と考えられ缶後者は陸奥鎮守府の前身であるとするのが通説であったが、近年論議が高まり、第一線の前進基地とみる見解、鎮守府およびその支配の及ぶ行政範囲とみる見解などがあり一定しないが、鎮守将軍の滞在すべき地であることは確かであろう。(18)この二例を参照すれば、鎮所とは節度使、鎮守将軍等、中央から派遣された軍事指揮官ないし軍政官の駐留すべき地として使用されているのは明らかである。そして広嗣の乱における政府軍は板積鎮を主たる軍営となしたことは史料Cによって明白である。従って鎮所とは三鎮の総称でも遠珂軍営でもなく、板積鎮こそがふさわしいと考えられ、それは多理志佐の証言内容を合戦直前の状況とする立場とも合致するのである。ただし、鎮所の語の使用が反乱軍側から述べられていること、板積鎮は政府軍の手中にあったことについては二三口触れておく必要がある。前者はあたかも広嗣側が鎮所の語を使用したかにみえるが、実際は多理志佐の証言を大野東人が報告したのであり、かつ続紀編者の手が加わっていることを考慮すれば、多理志佐が鎮所の語を使用したとみるよりは、政府側の認識による用語とすべきであろう。後者に関しては、板積鎮はすでに政府軍が制しており、広嗣軍は鎮そのものには到達していない。従って広嗣側からみた鎮所とは鎮の近辺芝解すべきである。具体的には板慣河西岸への到達を意味している。(19)

以上、鎮所とは板積鎮(近辺)であり、鎮所未到とは板積河西岸への結集状況であることを明らかにしえたと思う。

(5)  鎮所未到

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では「鎮所未到」の時期及びその後の状況はどうか。栄原氏は九月二十日以前であり、かつ間もなく綱手軍は合流したとされる。鎮所を板積鎮とするかぎり(氏も板積としている)その時期は三鎮陥落前ではあり得ないことは既に述べた。合流はありえたか。再三述べる如く「鎮所未到」が合戦直前の状況であれぽ合流は行なわれなかったと解す以外にない。合流説の根拠は合戦時広嗣軍の員数と進発時広嗣、綱手両軍合計数が合致するためであるが、多麻呂軍は関係ないのであろうか。豊後国より往く綱手軍が、豊後国府へ抜ける豊後道をとろうが、(20)日田から山国川に沿い吉富町へ出る道をとろうが、(21)それよりは田河道を往く古麻呂軍の方が、よほど板積には近いのである。古麻呂軍がそっくり行方不明にでもならない限り、もし合流があったとすれぽ田河道経由古麻呂軍であろう。而して多理志佐が「不知所率軍数」と語っていることは、(それが続紀編者の注ではないかぎり)古麻呂軍が合流していないことを示すものである。即ち青木和夫氏の記す如く板積河の合戦は広嗣軍畔独で行なわれたことになる。(22)

ところが、その場合は「広嗣の衆が一万余騎であること」と符合しなくなる。進発時に五千人であった広嗣軍が、三鎮陥落、豊前郡司離反という不利な情勢の中、人数を倍増しうるものであろうか。無理といわざるをえない。となれぽ一万という数に問題があるのか、やはり合流があったのか、どちらかにならざるをえまい。

前者は佐伯常人、阿譜触麻呂の報告をうけて大野東人が奏上文をしたためた中の数である。その間に誇張が生ずる余地は大いに存する。政府軍は六千余人であった。それに倍する反乱軍をさしたる戦闘なしに口説をもって離散せしめたとあれぽ、その功は弥増の印象を与えるであろう。あるいは、一万という数は多理志佐証言の広嗣、綱手両軍の計に等しいだけに、多理志佐証言より合成された数とみることも可能である。一万という数には余り拘泥しない方がよいの ではあるまいか。

では合流の可能性はどうか。綱手、古麻呂両人が未到であることは動かしようがない。しかし両名は未到でも両軍の一部が参着しなかったと言い切れるであろうか。この問題は三軍進発と目的とにかかわってくる。

(6) Start of great army (三軍進発)

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(7) Concentration/regimentation on the Itabitsu riverside (板積河畔結集)

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以上により三軍進発は三鎮陥落、政府軍進駐後とみるべきである。それでは三軍進発の目的及び結果はどうであったか。単に板積鎮に向けて結集するためであったのなら、ことさら三道に分け(特に豊後国を経由して)進発する必要はない。先行諸説が時期及び経路については見解を異にするものの、全て一致して三鎮をめざしたとするのもその故であり、筆者においても異論はない。そして三鎮陥落後の進発であれぽ、小田、長両氏の説く如く三鎮の奪回ないし状況たて直しが目的であったろう。しかしそれが成功しなかったのは明らかで、その原因は豊前郡司層の離反にある。豊後国経由、田河道経由がどのコースを辿ったにせよ、離反郡司勢力圏の真只中を通る、ことになる。広嗣側は強行突破可能とみての進発であ.たろうが、結果は「鎮所未到」の証頭に示されるとおりであった。しかしながら軍としての統制を欠き、いわば敗残兵の群となった兵逹が、三々五々最終目的地たる板積に集結していったことは考えられる。先に疑問とした「合流」も、かく考えるならば可能であり、一万という数も誇張はあるにせよ合理的に解釈しうる。いささか推測にすぎるかしれないが板横河会戦での広嗣軍の構成をかく想定しておきたい。

まとめにかえて

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以上、多分の推測を交えつつ広嗣の行動軌跡を追ってみた。政府軍の活動、板積河会戦以後の広嗣に関しては、三鎮攻略の件を除いて栄原氏の整理に異存はない。結果として先行諸説に拠りかかり、些細な言質をとらえ、すでに指摘されている事象を追認するにとどまったかもしれない。しかし広嗣の乱が多彩な内容を有し、単に八世紀政治史上の一事件にとどまらず、橘諸兄政権論、大宰府の管内支配権、天平期の軍制及び大宰府の軍事権、九州各地域と畿内政権との関連等々から北部九州と新羅との関係にまで論が及んでいる現況においては、乱の経過の確定あるいは生起する諸問題の指摘などは、なお、無意味ではないと思う。あえて小稿を草するに至った次第である。諸賢の御批判を賜われぽ幸いである。

。。。

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九州工業大学学術機関リポジトリ

九州工業大学学術機関リポジトリ Title藤原広嗣の乱の基礎的考察 : 栄原・長両氏説に接して Author(s)北條, 秀樹 Issue Date 1988-03-31T00:00:00Z URL http://hdl.handle.net/10228/3490 Rights


Kyushu Institute of Technology Academic Repository


                      主として問題となるのは次の四点である。

                      主として問題となるのは次の四点である。

       一、はじめに                    右を論ずるにあたり、行論の便宜上、論点に関する続紀の記載を

察                     掲げておく。

縫天平+二年八月、僧正玄肪法師、右衛士督下道朝臣真備を弾劾す九月二+四日条

嚇反乱の過程が具体的に語られている史料としては古代を通じても稀   着箭二隻逃鼠野裏 生虜登美.板積.京都三慮営兵一千七百六

嚥なものであるだけに、、」れまで多くの論究がなされている。その論 +ま器隼七事

 ら、古代における筑紫と遭政権との関係にまで及び、ま.Σに多 謹人廿四人井軍士四千入考月廿一」発渡竃藷亘  岐多彩な内容を有している。                   東人等将後到兵尋遮発渡

 不明確なことに気がつく。また乱の過程そのものについても諸説紛   浜   々たるのが実状であろう。そのため、かねてより整理すべき機会を 九月二十五日条

                                                             ニ  し、また機会も与えられたため広嗣の乱の再検討を行なってみた。   兵五百騎 仲津郡擬少領無位膳東人 兵八十人 下毛郡擬少領

23{稿ではその中でも乱の過程を中心に若干の私見を述べてみたいが、   無位勇山伎美麻呂 筑城郡擬少領外大初位上佐伯豊石 兵七十

 うかがっていたところ、近時、栄原永遠男、長洋一両氏の論考に接  E大将軍東人等言 豊前国京都郡大領外従七位上楮田勢麻呂 将

  しかし研究史を通観してみると、多岐なるが故に意外に全体像が  D又間諜申云 広嗣訟遠珂郡家造軍増儲兵湾 而孝蜂水撒発国内

隼人参加の意味、郡司層の関与とその兵力、大宰府の軍事力等.かc又責使従五位上佐伯宿称常人従五位下安倍朝臣虫麻量 鯨蕊蔑竃㌶聾海離劇纏麗珊竃B酬璃竃郡少領外正八位上額田部広麻呂藷兵冊虫

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 九月二十九日条                      右の指摘はいずれも至当と考えられるが、広嗣の乱に関する先行

   皇筑紫府管内諸国官人百姓書逆人広嗣小来凶悪(中略)已諸説の多くは、氏説以後にあ.てもこの点にあまり留意せずに叙述

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   符数+采撒響国        氏は坂本氏の視点に従い、乱の時間的経過を克明に考察された。特

  十月九日条                        に栄原氏は詳細に前後関係を復元整理され、もはや付加すべき点は    1大将軍東人笠言 逆賊藤原広嗣茎衆一万許騎剖板積逼 広嗣親 無きかの如くであるが、なおいくつかの疑問点が残るように思われ

    自率隼人軍為前鋒        る。いささか屋上屋のさらに屋との感なきにしもあらずだが、両氏

秀鯨嗣竃難竃露纏軍轟鑓竃 壽説検 討


條 呂蕊所.譜河道往但広嗣之衆到来鎮所綱手多胡古麻呂床       、     2

    到                             まず先行諸説を検討しつつ最も詳細な跡づけをされた栄原氏説の

北                             結論部分により、氏の復元案を示しておこう。    史料を続紀に限り、かつ同一条をいくつかに分類したのは既に坂 イ広嗣は八月下旬に上表文を提出、八月二十九.三十日には挙兵に

                      本太郎氏の指摘が存する故である。即ち坂本氏は広嗣関係史料とし  ふみきる。°   て引用されることの多かった『松浦廟宮本縁起』に関し、おそらく ロ広嗣は三軍を編成し、三道より鎮所をめざし進撃を開始した。   は鎌倉時代後半、元冠以後を上限とし鎌倉末までに成立した神宮知 ハ九月中旬、広嗣は遠珂郡家に前進基地として軍営を設け、筑前国   識無怨寺の自己主張・権益保護を目的としたものであり、文中の広  内の兵を徴発した。   嗣に関する人物評・上表文・乱の経過などはいずれも後世の造作で 二広嗣軍が鎮所に到達したとき綱手・古麻呂両軍は未到であった。   あり真正なものとは認められないとされた。又、続紀についても後  豊後国経由の綱手軍はまもなく合流するが、古麻呂軍はついに合   世の編纂書であるが故の編纂上の操作が加えられているとする。具  流しえなかった。その時期は三鎮陥落以前である。   体的には、大将軍大野東人の報告記事の日付は報告書が政府に到達 ホ政府軍は関門海峡をわたり、九月二十.二十一日ごろ三鎮を陥落   した時点のものであり、事項の生起は当時の九州⊥並塑泉間馳駅の日  させ、広嗣軍は惨敗する。

樹  J又降服隼人贈燃君多理志佐申云 逆賊広嗣謀云 灸三道往 即 説に導かれつつ今一度乱の経過をふりかえってみたい。

   F又豊前国百姓豊国秋山等殺逆賊三田塩籠           個の報告書であったものを、続紀編纂時に同類事項として同日条に

      峰する。          五千の総計が合致すること・逃亡において両者が行動を共にしたと  3

      峰する。          五千の総計が合致すること・逃亡において両者が行動を共にしたと  3

        へその後、政府軍の後続部隊は九月二十一日、二十二日と上陸して によるものであるとされたが、妥当な見解であろう。          兵力を増強し、板積鎮に幕営を定める。             さらに付加すれば、二十一.二日に渡海した政府軍は四千人強で

        チ広嗣はその後体制を立て直し、十月五、六日ごろには板積河西岸 の来帰を考える古ご十一・二日に渡海したのは当時の中央政府軍の          に進出し政府軍と対峙するが、佐伯常人との応酬に敗れ、総崩れ ほとんど全てであったと思われる。とすればそれ以前に三鎮攻略を          となる。                        行ないうる政府軍を算出する余地はない。郡司層の活動により三鎮          一方、長洋一氏説はどうか。氏説の主題は周防灘沿岸郡司層の動 が陥落した後、政府軍が上陸し、板積を本営としたとみるべきであ        向の位置づけであるため、必ずしも栄原氏の如く克明に経過を追っ る。

      察たものではないが、大よそ次の如く整理されよう。        右に関連し、三鎮攻防戦において広嗣・綱手軍が惨敗したとする

      酵リ広嗣は九月中旬遠珂郡家に軍営を設ぴ国貞墾芝とする.栄原説(ニト)も否定的である。氏は板積河合戦時の広嗣軍芳

      媚 ル右をうけて二十一、二日に政府軍が渡海し三鎮を掌握する。   みられることにより、両者の合流を想定し、豊後国より往った綱手

、 願議剛雛鷺鞍が元して大きなくい違いをみ誘醗詩誌賎ハ肌護竃竃竃竪 騨


       せている部分が、何箇所かある。以下節を画して検討してみよう。 九月二十日ごろに想定される三鎮陥落時に適応するものではない。        ω 三鎮攻防                        そもそも「三鎮攻防戦で惨敗した」反乱軍が、進発時の軍容をその         まず三鎮を攻略した勢力であるが、栄原氏は中央政府軍とする まま半月後まで維持しえたであろうか。疑問と言わざるをえない。         (ホ・へ)のに対し、長氏は京都郡大領桔田勢麻呂など豊前ないし  三鎮陥落に際しては特記すべき戦闘の行なわれた形跡が存しない        周防灘沿岸の在地諸勢力であった(ヌ・ル)とする。栄原氏が中央 こと既述の如くである。さらに鎮長・大小長など広嗣・綱手に比し        政府による攻略とされた論拠は明らかではないが、九月廿四日条を てはるかに小者の存在まで追求、報告されている。総司令官たる広

       長氏は三鎮兵士が、さしたる戦闘の形跡もなく生虜されたのは、 いかにも不自然であろう。

      25 「当土の兵」よりなる鎮兵と攻撃側の郡司軍との地縁的血縁的融合  以上により、広嗣軍と綱手軍は三鎮陥落以前に合流し三鎮の防備

       素直に読めば、事態はABCの順に進んだとみるのが自然であろう。 嗣・綱手が参戦していたのなら、続紀にそのことが記されないのは

      繭ヲ広嗣は事態を回復せんとして三道より兵を発し三鎮に向うが、最が板積鎮にて広嗣とA。流しうるには道筋からみて三鎮陥落以前でな

      礎ヌ九月二十日ごろには周防灘沿岸郡司層の兵力によって三鎮が陥落 許騎と贈燃君多理志佐の証言(史料J)にある広嗣軍五千・綱手軍

        ト三鎮陥落.広嗣軍惨敗により、豊前国の郡司層は兵を率い、続々 あり、大将軍大野東人は後続を待って長門に留まっていた(史料B          と政府軍に来帰する。                   C)。これに対し板積河合戦時の政府軍は六千余人であり、郡司等

    26 を固めたが中央政府軍によって惨敗した、との栄原説,は首肯し得な 有している。この数が天平期に適用しうるとすれば、筑前.豊後両

      い。                           国兵は計五千六百人である。大隅・薩摩はおそらく隼人兵であろう       ② 遠珂軍営                        が、板積河合戦時に「降服隼人二十人」と記されていることは、そ        次に遠珂軍営の位置付である。広嗣が遠珂郡家に軍営を設け国内 れが隼人軍の全部ではないにせよ、そう多数ではなかったことを想

    26 を固めたが中央政府軍によって惨敗した、との栄原説,は首肯し得な 有している。この数が天平期に適用しうるとすれば、筑前.豊後両       い。                           国兵は計五千六百人である。大隅・薩摩はおそらく隼人兵であろう       ② 遠珂軍営                        が、板積河合戦時に「降服隼人二十人」と記されていることは、そ        次に遠珂軍営の位置付である。広嗣が遠珂郡家に軍営を設け国内 れが隼人軍の全部ではないにせよ、そう多数ではなかったことを想

..。竃竃を三軍の発進地とみる先行諸説に関して璽原㌫聾籠誘し顯類詩饗以外のいわぽ予備

  @ 

      によりその方向性に問題ありとの指摘が為されている。遠珂より鞍  遠珂軍営における広嗣の行動では今一つ、蜂火を挙げて兵を徴発し     秀手道゜田河道を往くのでは大宰府に行き着いてしまう。豊後国経由 た点が注目される。古代において戦時に峰火を用いたのは、この時の

- 廉に至っては論外である。        みしか知られていない。通常、.らことを以って馨響軍団曇に  4

    ー  次に徴発せんとした国内兵については、多くの説は軍団兵士とし、 おける峰火の使用が論じられるが、私見の如く予備役的兵士を徴発し     北広嗣率いる筑前国の兵と同じとしているが、横田健一氏は「すでに たのであれば、軍団とは直結しない。軍防令を検ずるに、蜂が軍団召    .  豊前の登美、板積、京都三処の営兵一千七百六十七名が生虜にされ 集の手段と解される条文は存在せず、もっぱら蜂の使用法を定めるの       たあとであるから、軍団・鎮の専門の兵士というよりは、民間から みである。滝川政次郎氏によれぽ日本の怪制は唐に比して粗漏であ

・発する罐士経験のある百姓兵であ.たとされる.三鎮兵士千七つい)かつ海外よりの敵襲を報ずることを目的としたものであると い   @ @       百余名が生虜られたあとであるからという氏の論拠は、すでに見た う。事実文献上峰の設置が認められるのは高安.高見.春日等の畿円       如く遠珂軍営にて広嗣が兵を徴発していたのが九月中旬、即ち三鎮 を除けぽ出雲・隠岐・対馬・壱岐.筑前.肥前.豊後等.北部九州及       陥落前であることにより従いえない。しかし民間から兵士経験者を び山陰道に限られる。対蝦夷用の蜂設置が認められないことと併せ

・麟萎鞠竃繍露ボぽ広嗣は大隅讐゜筑露麓抽霞⊇鷲鰭ぽ麿翼霞 醗   @ @       前゜豊後等国軍五千人を率いるとある・弘仁四年八月九日官待によ改めて検討されねぽならないことであるが、ことは広嗣の動員権、       れぽ、筑前国は四団四千人、豊後国は二団一千六百人の軍団兵士を ひいては大宰府の軍事権にも関与する問題であるため、いずれ稿を

 改めて論ずることにし、ここでは問題点の指摘のみにとどめる。  麻呂未到」という「鎮所未到」に関する部分とに分けられる。時間

 改めて論ずることにし、ここでは問題点の指摘のみにとどめる。  麻呂未到」という「鎮所未到」に関する部分とに分けられる。時間

  先に整理した如く、この件に関しては栄原氏(ロ)と濠氏(ヲ)で 証言を採録しなかった可能性は十分にあるが、それを前提に立論す

                            

  は大きな異なりをみせている。長説は小田富士夫氏の説をうけて三 るのは控えるべきであろう。                ’  軍進発を三鎮陥落後とするが、栄原氏は通説どおり挙兵時のことと  贈咲君多理志佐の証言時期を右の如くに確定した上で「三軍進発」

察しく検討してみよう。                      ω 鎮所 鯖多理志佐証言口の検討は、証言、が為された時期と証言.内容の時期とまず鎮所についてであるが、ほとんどの説は板竃をして鎮所に 礎 の確定につきる。まず証言がなされた時期であるが、これは板積河 比定している。栄原氏もまた「三鎮(もしくはその一つ)」と慎重

鮨に外従五位下を授けられているが、これは広嗣の乱に関しての叙位 ことは明らか鞍ある。これに対し久米邦武は遠珂軍営を想定してい

原しろ残党として処罰されることはあっても外五位をもって褒賞され 軍(1綱手軍-筆者注)は、中央政府軍の上陸が予想される企救半

藤ることはあるまい。芳、合戦の前旬日蕩ること皇えられない。島付近に到達しながら、そこに布陣することなく・その一帯を通過

 彼の証言内容は反乱軍の軍事力構成を知りうる唯一のものである。 してしまって、いわぽ敵に背をみせながら遠珂郡家へ移動すること

                                          け 

 遠珂郡家における広嗣の動向に比しても格段の重要性を有す情報が になる。これは不自然」として遠珂郡家説を否定された。しかし、  事前に入手しえたのなら、大野東人は当然即座に奏言したであろう 氏が「企救半島付近に到達しながら」とされた根拠は不明ながらも・  し、続紀編者もまた特記したにちがいない。彼の降服を河中泳来の 豊後国経由では板積鎮(現在の北九州市小倉北区到津に比定される)

 隼人あるいは「降服隼人二十人」の中に含む必要は必ずしもないが、 に向うのも、遠珂郡家(遠賀川中流域と推定されエ『)に向うも・方  合戦中をも含む広嗣軍潰走の前後であったことは疑いえない。従っ 角ちがいという点においては大同小異である。また逆に鞍手道は勿   てその証言の時期は、おそくても合戦直後でなくてはならない。  論、田河道も遠賀川中流域には至便な方向である。

  次に証言内容の時期である。証言内容は広嗣、綱手、古麻呂率い  一方長氏は「鎮」という語は「政府へ抵抗するものを抑圧するた

@る三軍の進発に関する部分と、「但広嗣之衆到来鎮所 綱手多胡古 めの拠点という意味で使用される性格」のものであるから、「反乱

綱である。もし多理志佐の降服がA.戦後智を経た時期であれば、むるようである。栄原氏は久米説に対し「そうすると、少なくともB

腿合戦の直後とみるべきである.違志佐は翌天平+三年閏三月乙卯な言いまわしをしながらc論旨からみれぽ掻鎮を想定している 5

 する。問題は多理志佐証言の解釈如何である故、今一度史料Jを詳  「鎮所未到」をいかに位置づけるべきであろうか。

� 四軍の拠点を政府側の記録で鎮ということはなかった(↓どして、間接府側の認識による用語とすべきであろう。後者に関しては、板積鎮

四軍の拠点を政府側の記録で鎮ということはなかった(↓どして、間接府側の認識による用語とすべきであろう。後者に関しては、板積鎮

 えないと思われる。続紀には「広嗣於遠珂郡家造軍営」とあること ない。従って広嗣側からみた鎮所とは鎮の近辺芝解すべきである。   は既に再三述べてきたが、「軍営」は軍防令にある立派な律令用語 具体的には板慣河西岸への到達を意味している。   である。明らかなる反乱軍の拠点を律令用語をもって「軍営」と称  以上、鎮所とは板積鎮(近辺)であり、鎮所未到とは板積河西岸

  する以上、「鎮所」の語を反乱軍側に用いても不思議はない。    への結集状況であることを明らかにしえたと思う。    以上、栄原、長両氏の論拠では久米説を否定しえないと思われる。 ⑤ 鎮所未到

 板積鎮を鎮所とするには別の論拠が必要である。          では「鎮所未到」の時期及びその後の状況はどうか。栄原氏は九   鎮所の語は他に天平六年出雲国計会帳と陸奥国におけるそれとが 月二十日以前であり、かつ間もなく綱手軍は合流したとされる。鎮  知られている。前者は天平四年八月山陰道他四道に設置された節度 所を板積鎮とするかぎり(氏も板積としている)その時期は三鎮陥

樹使の・石見国における滞在地と考えられ缶後者は陸奥鎮守府の前落前ではあり得ないことは既に述べた。合流はありえたか。再三述  身であるとするのが通説であったが、近年論議が高まり、第一線の べる如く「鎮所未到」が合戦直前の状況であれぽ合流は行なわれな

秀前進基地とみる見解、鎮守府およびその支配の及ぶ行政範囲とみる かったと解す以外にない。合流説の根拠は合戦時広嗣軍の員数と進

條羅ぱ纏 籠蘇婿鱗竃竃籔罐翼霞灘四纏曇㍊議繍露繰 6


北軍等、中央から派遣された軍事指揮官ないし軍政官の駐留すべき地 後道をとろうが、日田から山国川に沿い吉富町へ出る道をとろうが、

  として使用されているのは明らかである。そして広嗣の乱における それよりは田河道を往く古麻呂軍の方が、よほど板積には近いので

  ある。従って鎮所とは三鎮の総称でも遠珂軍営でもなく、板積鎮こ があったとすれぽ田河道経由古麻呂軍であろう。而して多理志佐が  そがふさわしいと考えられ、それは多理志佐の証言内容を合戦直前  「不知所率軍数」と語っていることは、(それが続紀編者の注では   の状況とする立場とも合致するのである。ただし、鎮所の語の使用 ないかぎり)古麻呂軍が合流していないことを示すものである。即

  たことについては二三口触れておく必要がある。前者はあたかも広嗣 とになる。

 側が鎮所の語を使用したかにみえるが、実際は多理志佐の証言を大  ところが、その場合は「広嗣の衆が一万余騎であること」と符合  野東人が報告したのであり、かつ続紀編者の手が加わっていること しなくなる。進発時に五千人であった広嗣軍が、三鎮陥落、豊前郡

  を考慮すれば、多理志佐が鎮所の語を使用したとみるよりは、政 司離反という不利な情勢の中、人数を倍増しうるものであろうか。無

 が反乱軍側から述べられていること、板積鎮は政府軍の手中にあ.ち圭目木魂氏の記す如く板積河のA.戦は広嗣軍単独で行なわれた.」

  政府軍は板積鎮を主たる軍営となしたことは史料Cによって明白で ある。古麻呂軍がそっくり行方不明にでもならない限り、もし合流

    

   し

,  嚇とにかかわってくる。                    已上 何故発兵押来」と詰問し、広嗣は弁答しえずして却還した結

     理といわざるをえない。となれぽ一万という数に問題があるのか、 よりの進発」と「鎮所への集結」という一見異なったベクトルの整      やはり合流があったのか、どちらかにならざるをえまい。     合的解釈がなされていない。三鎮防備であれ奪回であれ、三道に分       前者は佐伯常人、阿譜触麻呂の報告をうけて大野東人が奏上文を かれ三鎮へ向ったと思われる三軍が、いかなる目的の下に板積鎮所

     したためた中の数である。その間に誇張が生ずる余地は大いに存す へ結集しなくてはならなかったのか。先行諸説にはその説明はない。

     闘なしに口説をもって離散せしめたとあれぽ、その功は弥増の印象 士四千余人は、板積鎮をめざして渡海したと解される。板積鎮はお      を与えるであろう。あるいは、一万という数は多理志佐証言の広嗣、 そらく到津駅をのぞみ大宰府へ通ずる官路を掌握する要地であった      綱手両軍の計に等しいだけに、多理志佐証言より合成された数とみ ろう。従ってこの地を制することは反乱軍政府軍双方にとり重要な      ることも可能である。一万という数には余り拘泥しない方がよいの ポイントだったことは疑いない。しかしそれだけではなお不十分で

   察ではあるまいか。                     ある。他の二鎮に比してより重要であるとの証明は未だなされてい

   繭⑥三軍進発 、        果、続々と投降者が出、広嗣軍は総崩れとなったのである。勝敗の^

ノ晶露舞罐彗麟転熟㍍れ㌔溺踏鞠麟磨劇嬬託鴇⇔鵠雛巳誤整恒蒜㌘ピ詩郵

  @願

     に長氏が指摘する如く、十月六日ごろと想定される板積河会戦時に になる。      未到では、その間四十日近くかかった日数の解釈に苦しむ。そのた  この召換命令は広嗣以下主だった連中の手に渡っていたにちがい      めであろう栄原氏は続紀に記されていない多理志佐証言の後半部分 ない。そうでなければ「何故発兵押来」との詰問にスゴスゴ引き下      を推理し、綱手軍の三鎮陥落前鎮所到達を想定された。しかしそれ るはずがない。広嗣は一方に武力をもって押し渡る意図をいだきつ

     は成立しえないこと前述の如くである。ひるがえって小田富士雄、 つ、一方に反乱の意図のないことを説明せんがため、召換された地、

     長両氏による三鎮奪回のための進発説はどうであろうか。たしかに 即ち政府軍本営のおかれた板積鎮所に軍勢を進めたのではあるまい      魅力的ではあるが、小田氏は論拠を示さず、長氏は周防灘沿岸郡司 か。その中途半端ゆえに、一面、万という(疑問はあるが)軍勢を      層の離反という大きな誤算に直面した広嗣の建て直し策とするが、 集結させることが可能であり、同時に論破されたことによりほとん    29 やや抽象的である。加えて両氏を含む先行諸説においては、「三道 ど戦わずして離散してしまったのであると考えられる。奪回にせよ

   膀ではA・流の可能性はどうか。綱手、古麻呂両人が未到であることない。ここで会戦時の描写を検討してみよう。広嗣は勅使佐伯常人

     る。政府軍は六千余人であった。それに倍する反乱軍をさしたる戦  史料Cをみるかぎり佐伯常人、阿倍虫麻呂に率いられる隼人並軍

� @防備にせよ三鎮に三軍を進発させながら、板積鎮所への集結を図る ったーのが実状であったと考える。   という一見方向的には矛盾とみられる行動は、右の如く解すること ⑦ 板積河畔結集   により理解されうると思われる。そして三軍進発の時期は召換命令  以上により三軍進発は三鎮陥落、政府軍准藍後とみるべきである。   の発せられた時以後とすべきであろう。而してその時期は、政府軍 それでは三軍進発の目的及び結果はどうであったか。単に板積鎮に   が板積に本営を構えた時期以後、即ち三鎮陥落後となると思う。  向けて結集するためであったのなら、ことさら三道に分け(特に豊    三軍進発が挙兵当初でなかったことは、反乱軍の兵力構成からも 後国を経由して)進発する必要はない。先行諸説が時期及び経路に   類推し得る。進発時の兵力は広嗣軍五千、綱手軍五千と記されてる ついては見解を異にするものの、全て一致して三鎮をめざしたとす   が、兵力不明の多胡古麻呂も同程度の兵力を有したであろうことは るのもその故であり、筆者においても異論はない。そして三鎮陥落   想像に難くない。さすれば少なくとも一万数千の軍勢を動員したと 後の進発であれぽ、小田、長両氏の説く如く三鎮の奪回ないし状況   考えられるが、弘仁四年官符にみられる三前三後の兵士は計一万七 たて直しが目的であったろう。しかしそれが成功しなかったのは明

@防備にせよ三鎮に三軍を進発させながら、板積鎮所への集結を図る ったーのが実状であったと考える。   という一見方向的には矛盾とみられる行動は、右の如く解すること ⑦ 板積河畔結集   により理解されうると思われる。そして三軍進発の時期は召換命令  以上により三軍進発は三鎮陥落、政府軍准藍後とみるべきである。   の発せられた時以後とすべきであろう。而してその時期は、政府軍 それでは三軍進発の目的及び結果はどうであったか。単に板積鎮に   が板積に本営を構えた時期以後、即ち三鎮陥落後となると思う。  向けて結集するためであったのなら、ことさら三道に分け(特に豊    三軍進発が挙兵当初でなかったことは、反乱軍の兵力構成からも 後国を経由して)進発する必要はない。先行諸説が時期及び経路に   類推し得る。進発時の兵力は広嗣軍五千、綱手軍五千と記されてる ついては見解を異にするものの、全て一致して三鎮をめざしたとす   が、兵力不明の多胡古麻呂も同程度の兵力を有したであろうことは るのもその故であり、筆者においても異論はない。そして三鎮陥落   想像に難くない。さすれば少なくとも一万数千の軍勢を動員したと 後の進発であれぽ、小田、長両氏の説く如く三鎮の奪回ないし状況   考えられるが、弘仁四年官符にみられる三前三後の兵士は計一万七 たて直しが目的であったろう。しかしそれが成功しなかったのは明

廉万五丁二万程度であ三ろうこと饒に指摘されてい毒従って結果は鎮所未到」の証頭に示されるとおりであった.しかしながら 8

口輔竃㏄鷲鷲擁竃ほ籔㌶霞鷺雛㌶蘇鮭鷲運語澆霞擾竃

  嗣挙兵の報に接した政府は即座に(おまかにも素早く遠)勅を以って 問とした「合流」も、かく考えるならば可能であり、一万という数

  東海、東山、山陰、山陽、南海五道の軍一万七千人を徴発せんとし も誇張はあるにせよ合理的に解釈しうる。いささか推測にすぎるか   たが、たとえ軍団制廃止の時期であったにせよ、九月二十二日の渡 もしれないが板横河会戦での広嗣軍の構成をかく想定しておきたい。   海には四千人、十月六日ごろに想定される板積河会戦においても、

  六千余人しか結集しえなかったのである。他の二鎮防備及び大将軍      四、まとめにかえて   大野東人の手元に残る兵力をいれても総数一万に満たないのが政府

  軍の実状であったろう。政府軍にしてこの有様であれば、広嗣がど  以上、多分の推測を交えつつ広嗣の行動軌跡を追ってみた。政府   のような準備をし・どのような名臨津よって召集したにせよ、全西 軍の活動、板積河会戦以後の広嗣に関しては、三鎮攻略の件を除い   海道兵士に匹敵する員数を挙兵時に用意し得たとは思えない。九月 て栄原氏の整理に異存はない。結果として先行諸説に拠りかかり、   中旬に至っても遠珂郡家にて兵を徴発しているーせざるを得なか 些細な言質をとらえ、すでに指摘されている事象を追認するにとど

  まったかもしれない。しかし広嗣の乱が多彩な内容を有し、単に八    のち「律令時代の国防と峰燧の制」と改題し『律令諸制及び令外官の

  まったかもしれない。しかし広嗣の乱が多彩な内容を有し、単に八    のち「律令時代の国防と峰燧の制」と改題し『律令諸制及び令外官の

  現況においては、乱の経過の確定あるいは生起する諸問題の指摘な   12 『続日本紀』同日条

  どは、なお、無意味ではないと思う。あえて小稿を草するに至った   13 久米邦武『奈良朝史』一九〇七年

  次第である。諸賢の御批判を賜われぽ幸いである。         14栄原「前掲論文」五一九頁

                                     15 渡辺正気氏の御教示による。

   1 広嗣の乱を主題とした論文は北山茂夫「七四〇年の藤原広嗣の叛乱」   17 早川庄八「天平六年出雲国計会帳の研究」(坂本太郎博士還暦記念

噸㌔雛竃籠殼88鷺詑竃鷲賢許躰竃轄口鮎麿)つい†三東北婁料館 研


礎   いる。それらについては後掲栄原論文に委ねる。            究紀要』六 一九八〇年) 喧2坂本太郎「藤原広嗣の乱とその史料」(高柳光寿博士頚寿記念『戦 日現在の板櫃川は北九州市小倉北区愛宕と板櫃町との間を流れ晶港 9

蹴3乱戴堅離巖鷲離ゴ糞甦籠上 鷲竃霞竃齢鱗編露㌔纏 鷺 螂甦建畔↑誌嘉㌶遠‥運三九州史学』七㌶軽誤鋲雛難に㎝鷺竃 藷


   5 丸山二郎「藤原広嗣の乱と鎮西府」(『歴史教育』三-五 一九五    ある。(北九州市埋蔵文化財調査室『埋蔵文化財調査室年報1』昭和

    五年)、竹尾幸子「広嗣の乱と筑紫の軍制」(『古代の日本』3九州     五十八年度 一九八五年)。一方、旧板櫃川東岸五、六百米の所には、      一九七〇年)、平野邦雄・飯田久雄『福岡県の歴史』一九七四年など。    後世小倉城が築かれているが、板積鎮の候補地としても参考になる。    6 横田健一「天平十二年藤原広嗣の乱の一考察」(『律令国家の基礎   20 前掲竹尾論文、青木和夫『奈良の都』(中央公論社版『日本の歴史』     構造』一九六〇年、のち同氏『白鳳天平の世界』一九七三年所収)。    3 一九六五年)などには地図化されている。    7 『類聚三代格』巻十八                      21 長洋一「前掲論文」    8 反乱軍の大部分は隼人であるとの説もあるが(卯野木盈二「藤原広   22 青木和夫『前掲書』     嗣の乱と隼人」『九州史学』一六、一九六〇年)疑問。ただし広嗣が   23 続紀十月九日条を検ずるかぎり、大野東人は会戦に参加していない。     隼人軍に寄せた期待度は別問題である。                24 注7                            ・

@  9 滝川政次郎「上代蜂燧考」(『史学雑誌』六一-一〇 一九五二年1   25 『続日本紀』天平宝字五年十一月丁酉条

   4 史料Eによる来帰郡司兵力は六百五十人以上となる。         から五位以上官人が使用したと推定されているが、興味をひく発見で

との関連等々から北部九州と新羅との関係にまで論が及んでいるu九訓鐸雄「上代における大宰府と豊}別」(『九州史学二。一

� @  26 竹尾幸子「前掲論文」

@  26 竹尾幸子「前掲論文」

    本郷に帰されている(「周防国天平十年正税張」)。

   28 政府側は反乱を予期し、むしろ挑発したのではないかとの坂本氏の     指摘さえある(注2「前掲論文」)。    29 広嗣がいかなる名目の下に、いかなる権限をもって兵を徴集したの

    かは、あらためて検討されねばなるまい。

  〔付記〕本稿は一九八七年度九州史学研究△芙会(一九八七・十 ・ 十八 於 九州大学)にて「藤原広嗣の乱の再検討」と題して口 頭 発表した中の一部である。席上御助言を賜った会員諸氏に感謝の 意


樹 を表したい。

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Kyushu Institute of Technology Academic Repository 九州工業大学学術機関リポジトリ Title 藤原広嗣の乱の基礎的考察 : 栄原・長両氏説に接して Author(s) 北條, 秀樹 Issue Date 1988-03-31T00:00:00Z URL http://hdl.handle.net/10228/3490 Rights                       主として問題となるのは次の四点である。 藤原広嗣の乱の基礎的考察 籠竃鷺賑酬㌶噛飾聾講翻   -栄原.長両氏説に接してー     ○広嗣、綱手、多胡古麻呂が三道より進発した時期と起点及び目的地                       ○板積河畔に結集した広嗣側勢力の構成          北  條  秀  樹                            二、史料        一、はじめに                    右を論ずるにあたり、行論の便宜上、論点に関する続紀の記載を 察                     掲げておく。 縫天平+二年八月、僧正玄肪法師、右衛士督下道朝臣真備を弾劾す九月二+四日条 噸聾破誘鰹轟藷雛脳霞讐纏A竃繋等藻羅馴爬難長猷彗竃計 - 嚇反乱の過程が具体的に語られている史料としては古代を通じても稀   着箭二隻逃鼠野裏 生虜登美.板積.京都三慮営兵一千七百六 嚥なものであるだけに、、」れまで多くの論究がなされている。その論 +ま器隼七事 鯨蕊蔑竃㌶聾海離劇纏麗珊竃B酬璃竃郡少領外正八位上額田部広麻呂藷兵冊虫 隼人参加の意味、郡司層の関与とその兵力、大宰府の軍事力等.かc又責使従五位上佐伯宿称常人従五位下安倍朝臣虫麻量  ら、古代における筑紫と遭政権との関係にまで及び、ま.Σに多 謹人廿四人井軍士四千入考月廿一」発渡竃藷亘  岐多彩な内容を有している。                   東人等将後到兵尋遮発渡   しかし研究史を通観してみると、多岐なるが故に意外に全体像が  D又間諜申云 広嗣訟遠珂郡家造軍増儲兵湾 而孝蜂水撒発国内  不明確なことに気がつく。また乱の過程そのものについても諸説紛   浜   々たるのが実状であろう。そのため、かねてより整理すべき機会を 九月二十五日条  うかがっていたところ、近時、栄原永遠男、長洋一両氏の論考に接  E大将軍東人等言 豊前国京都郡大領外従七位上楮田勢麻呂 将                                                              ニ  し、また機会も与えられたため広嗣の乱の再検討を行なってみた。   兵五百騎 仲津郡擬少領無位膳東人 兵八十人 下毛郡擬少領 23 {稿ではその中でも乱の過程を中心に若干の私見を述べてみたいが、   無位勇山伎美麻呂 筑城郡擬少領外大初位上佐伯豊石 兵七十 24 @  人.諌帰官軍                    数からして三?四日前であること、「又」字で連がる事項は本来別    F又豊前国百姓豊国秋山等殺逆賊三田塩籠           個の報告書であったものを、続紀編纂時に同類事項として同日条に    f又圭郡擬大領紀宇麻呂笠三人共謀舞徒首四級・合叙した可能性が強いこと等を論証された.  九月二十九日条                      右の指摘はいずれも至当と考えられるが、広嗣の乱に関する先行    皇筑紫府管内諸国官人百姓書逆人広嗣小来凶悪(中略)已諸説の多くは、氏説以後にあ.てもこの点にあまり留意せずに叙述    藁誰知彼国又聞或有逆入捉嚢冷会遭故更遣勅されている如きである。その中にあ.て近時栄原氷遠男.長詳⊂)両    符数+采撒響国        氏は坂本氏の視点に従い、乱の時間的経過を克明に考察された。特   十月九日条                        に栄原氏は詳細に前後関係を復元整理され、もはや付加すべき点は    1大将軍東人笠言 逆賊藤原広嗣茎衆一万許騎剖板積逼 広嗣親 無きかの如くであるが、なおいくつかの疑問点が残るように思われ     自率隼人軍為前鋒        る。いささか屋上屋のさらに屋との感なきにしもあらずだが、両氏 樹  J又降服隼人贈燃君多理志佐申云 逆賊広嗣謀云 灸三道往 即 説に導かれつつ今一度乱の経過をふりかえってみたい。 秀鯨嗣竃難竃露纏軍轟鑓竃 壽説検討 條 呂蕊所.譜河道往但広嗣之衆到来鎮所綱手多胡古麻呂床       、     2     到                             まず先行諸説を検討しつつ最も詳細な跡づけをされた栄原氏説の 北                             結論部分により、氏の復元案を示しておこう。    史料を続紀に限り、かつ同一条をいくつかに分類したのは既に坂 イ広嗣は八月下旬に上表文を提出、八月二十九?三十日には挙兵に                       本太郎氏の指摘が存する故である。即ち坂本氏は広嗣関係史料とし  ふみきる。°   て引用されることの多かった『松浦廟宮本縁起』に関し、おそらく ロ広嗣は三軍を編成し、三道より鎮所をめざし進撃を開始した。   は鎌倉時代後半、元冠以後を上限とし鎌倉末までに成立した神宮知 ハ九月中旬、広嗣は遠珂郡家に前進基地として軍営を設け、筑前国   識無怨寺の自己主張・権益保護を目的としたものであり、文中の広  内の兵を徴発した。   嗣に関する人物評・上表文・乱の経過などはいずれも後世の造作で 二広嗣軍が鎮所に到達したとき綱手・古麻呂両軍は未到であった。   あり真正なものとは認められないとされた。又、続紀についても後  豊後国経由の綱手軍はまもなく合流するが、古麻呂軍はついに合   世の編纂書であるが故の編纂上の操作が加えられているとする。具  流しえなかった。その時期は三鎮陥落以前である。   体的には、大将軍大野東人の報告記事の日付は報告書が政府に到達 ホ政府軍は関門海峡をわたり、九月二十?二十一日ごろ三鎮を陥落   した時点のものであり、事項の生起は当時の九州⊥並塑泉間馳駅の日  させ、広嗣軍は惨敗する。         へその後、政府軍の後続部隊は九月二十一日、二十二日と上陸して によるものであるとされたが、妥当な見解であろう。          兵力を増強し、板積鎮に幕営を定める。             さらに付加すれば、二十一?二日に渡海した政府軍は四千人強で         ト三鎮陥落.広嗣軍惨敗により、豊前国の郡司層は兵を率い、続々 あり、大将軍大野東人は後続を待って長門に留まっていた(史料B          と政府軍に来帰する。                   C)。これに対し板積河合戦時の政府軍は六千余人であり、郡司等         チ広嗣はその後体制を立て直し、十月五、六日ごろには板積河西岸 の来帰を考える古ご十一・二日に渡海したのは当時の中央政府軍の          に進出し政府軍と対峙するが、佐伯常人との応酬に敗れ、総崩れ ほとんど全てであったと思われる。とすればそれ以前に三鎮攻略を          となる。                        行ないうる政府軍を算出する余地はない。郡司層の活動により三鎮          一方、長洋一氏説はどうか。氏説の主題は周防灘沿岸郡司層の動 が陥落した後、政府軍が上陸し、板積を本営としたとみるべきであ        向の位置づけであるため、必ずしも栄原氏の如く克明に経過を追っ る。       察たものではないが、大よそ次の如く整理されよう。        右に関連し、三鎮攻防戦において広嗣・綱手軍が惨敗したとする       酵リ広嗣は九月中旬遠珂郡家に軍営を設ぴ国貞墾芝とする.栄原説(ニト)も否定的である。氏は板積河合戦時の広嗣軍芳       礎ヌ九月二十日ごろには周防灘沿岸郡司層の兵力によって三鎮が陥落 許騎と贈燃君多理志佐の証言(史料J)にある広嗣軍五千・綱手軍       峰する。          五千の総計が合致すること・逃亡において両者が行動を共にしたと  3       し       媚 ル右をうけて二十一、二日に政府軍が渡海し三鎮を掌握する。   みられることにより、両者の合流を想定し、豊後国より往った綱手       繭ヲ広嗣は事態を回復せんとして三道より兵を発し三鎮に向うが、最が板積鎮にて広嗣とA。流しうるには道筋からみて三鎮陥落以前でな 、 願議剛雛鷺鞍が元して大きなくい違いをみ誘醗詩誌賎ハ肌護竃竃竃竪騨        せている部分が、何箇所かある。以下節を画して検討してみよう。 九月二十日ごろに想定される三鎮陥落時に適応するものではない。        ω 三鎮攻防                        そもそも「三鎮攻防戦で惨敗した」反乱軍が、進発時の軍容をその         まず三鎮を攻略した勢力であるが、栄原氏は中央政府軍とする まま半月後まで維持しえたであろうか。疑問と言わざるをえない。         (ホ・へ)のに対し、長氏は京都郡大領桔田勢麻呂など豊前ないし  三鎮陥落に際しては特記すべき戦闘の行なわれた形跡が存しない        周防灘沿岸の在地諸勢力であった(ヌ・ル)とする。栄原氏が中央 こと既述の如くである。さらに鎮長・大小長など広嗣・綱手に比し        政府による攻略とされた論拠は明らかではないが、九月廿四日条を てはるかに小者の存在まで追求、報告されている。総司令官たる広        素直に読めば、事態はABCの順に進んだとみるのが自然であろう。 嗣・綱手が参戦していたのなら、続紀にそのことが記されないのは        長氏は三鎮兵士が、さしたる戦闘の形跡もなく生虜されたのは、 いかにも不自然であろう。       25 「当土の兵」よりなる鎮兵と攻撃側の郡司軍との地縁的血縁的融合  以上により、広嗣軍と綱手軍は三鎮陥落以前に合流し三鎮の防備     26 を固めたが中央政府軍によって惨敗した、との栄原説,は首肯し得な 有している。この数が天平期に適用しうるとすれば、筑前.豊後両       い。                           国兵は計五千六百人である。大隅・薩摩はおそらく隼人兵であろう       ② 遠珂軍営                        が、板積河合戦時に「降服隼人二十人」と記されていることは、そ        次に遠珂軍営の位置付である。広嗣が遠珂郡家に軍営を設け国内 れが隼人軍の全部ではないにせよ、そう多数ではなかったことを想       兵を徴したのが九月半ぽであることは両氏とも一致している・間諜定させ㍗とすれば広嗣の率いた筑前・豊後の兵は、その定員の大       の報告が二十四日条にかけられていることよりして、たとえ続紀編 部分であった可能性が強い。そうであるなら遠珂軍営で徴発すべき       者による合叙があったとしても、報告内容は探索に要した日数を考  (筑前)国内兵は、正規兵としてはほとんど残っていなかったので       えれぽ九月二十日以前の事情であること確実である。しかし広嗣の はなかろうか。第一、挙兵して半月以上も経てから軍団兵士(それ       行動過程における位置づけは、三軍進発時の理解と相侯って、やや もお膝下の筑前兵)を召集するのでは、いかに広嗣が無計画であっ   @ ??。竃竃を三軍の発進地とみる先行諸説に関して璽原㌫聾籠誘し顯類詩饗以外のいわぽ予備       によりその方向性に問題ありとの指摘が為されている。遠珂より鞍  遠珂軍営における広嗣の行動では今一つ、蜂火を挙げて兵を徴発し     秀手道゜田河道を往くのでは大宰府に行き着いてしまう。豊後国経由 た点が注目される。古代において戦時に峰火を用いたのは、この時の - 廉に至っては論外である。        みしか知られていない。通常、.らことを以って馨響軍団曇に  4     ー  次に徴発せんとした国内兵については、多くの説は軍団兵士とし、 おける峰火の使用が論じられるが、私見の如く予備役的兵士を徴発し     北広嗣率いる筑前国の兵と同じとしているが、横田健一氏は「すでに たのであれば、軍団とは直結しない。軍防令を検ずるに、蜂が軍団召    .  豊前の登美、板積、京都三処の営兵一千七百六十七名が生虜にされ 集の手段と解される条文は存在せず、もっぱら蜂の使用法を定めるの       たあとであるから、軍団・鎮の専門の兵士というよりは、民間から みである。滝川政次郎氏によれぽ日本の怪制は唐に比して粗漏であ   @ @  ・発する罐士経験のある百姓兵であ.たとされる.三鎮兵士千七つい)かつ海外よりの敵襲を報ずることを目的としたものであるとい       百余名が生虜られたあとであるからという氏の論拠は、すでに見た う。事実文献上峰の設置が認められるのは高安.高見.春日等の畿円       如く遠珂軍営にて広嗣が兵を徴発していたのが九月中旬、即ち三鎮 を除けぽ出雲・隠岐・対馬・壱岐.筑前.肥前.豊後等.北部九州及       陥落前であることにより従いえない。しかし民間から兵士経験者を び山陰道に限られる。対蝦夷用の蜂設置が認められないことと併せ   @ @  ・麟萎鞠竃繍露ボぽ広嗣は大隅讐゜筑露麓抽霞⊇鷲鰭ぽ麿翼霞醗       前゜豊後等国軍五千人を率いるとある・弘仁四年八月九日官待によ改めて検討されねぽならないことであるが、ことは広嗣の動員権、       れぽ、筑前国は四団四千人、豊後国は二団一千六百人の軍団兵士を ひいては大宰府の軍事権にも関与する問題であるため、いずれ稿を  改めて論ずることにし、ここでは問題点の指摘のみにとどめる。  麻呂未到」という「鎮所未到」に関する部分とに分けられる。時間    さて遠珂軍営に関しては、これを鎮所とみなす説もあるが、この 的には前者と後者との間に何日かの隔りがあろうが、いずれにせよ   ことは三軍進発時の問題と密接に絡む故、そちらで考察したい。  現存史料をもってして語る場合には、降服の直前までに多理志佐が  ③ 贈燃君多理志佐証言            ・       知り得た情報とみる他はない。即ち「鎮所未到」とは板積河合戦直    次に広嗣、綱手、多胡古麻呂に率いられた三軍の問題に移ろう。 前の状況とせざるをえまい。勿論、続紀編者が「鎮所未到」以後の   先に整理した如く、この件に関しては栄原氏(ロ)と濠氏(ヲ)で 証言を採録しなかった可能性は十分にあるが、それを前提に立論す                                は大きな異なりをみせている。長説は小田富士夫氏の説をうけて三 るのは控えるべきであろう。                ’  軍進発を三鎮陥落後とするが、栄原氏は通説どおり挙兵時のことと  贈咲君多理志佐の証言時期を右の如くに確定した上で「三軍進発」  する。問題は多理志佐証言の解釈如何である故、今一度史料Jを詳  「鎮所未到」をいかに位置づけるべきであろうか。 察しく検討してみよう。                      ω 鎮所 鯖多理志佐証言口の検討は、証言、が為された時期と証言.内容の時期とまず鎮所についてであるが、ほとんどの説は板竃をして鎮所に 礎 の確定につきる。まず証言がなされた時期であるが、これは板積河 比定している。栄原氏もまた「三鎮(もしくはその一つ)」と慎重 腿合戦の直後とみるべきである.違志佐は翌天平+三年閏三月乙卯な言いまわしをしながらc論旨からみれぽ掻鎮を想定している 5 鮨に外従五位下を授けられているが、これは広嗣の乱に関しての叙位 ことは明らか鞍ある。これに対し久米邦武は遠珂軍営を想定してい 綱である。もし多理志佐の降服がA.戦後智を経た時期であれば、むるようである。栄原氏は久米説に対し「そうすると、少なくともB 原しろ残党として処罰されることはあっても外五位をもって褒賞され 軍(1綱手軍-筆者注)は、中央政府軍の上陸が予想される企救半 藤ることはあるまい。芳、合戦の前旬日蕩ること皇えられない。島付近に到達しながら、そこに布陣することなく・その一帯を通過  彼の証言内容は反乱軍の軍事力構成を知りうる唯一のものである。 してしまって、いわぽ敵に背をみせながら遠珂郡家へ移動すること                                           け   遠珂郡家における広嗣の動向に比しても格段の重要性を有す情報が になる。これは不自然」として遠珂郡家説を否定された。しかし、  事前に入手しえたのなら、大野東人は当然即座に奏言したであろう 氏が「企救半島付近に到達しながら」とされた根拠は不明ながらも・  し、続紀編者もまた特記したにちがいない。彼の降服を河中泳来の 豊後国経由では板積鎮(現在の北九州市小倉北区到津に比定される)  隼人あるいは「降服隼人二十人」の中に含む必要は必ずしもないが、 に向うのも、遠珂郡家(遠賀川中流域と推定されエ『)に向うも・方  合戦中をも含む広嗣軍潰走の前後であったことは疑いえない。従っ 角ちがいという点においては大同小異である。また逆に鞍手道は勿   てその証言の時期は、おそくても合戦直後でなくてはならない。  論、田河道も遠賀川中流域には至便な方向である。   次に証言内容の時期である。証言内容は広嗣、綱手、古麻呂率い  一方長氏は「鎮」という語は「政府へ抵抗するものを抑圧するた 27 @る三軍の進発に関する部分と、「但広嗣之衆到来鎮所 綱手多胡古 めの拠点という意味で使用される性格」のものであるから、「反乱 四軍の拠点を政府側の記録で鎮ということはなかった(↓どして、間接府側の認識による用語とすべきであろう。後者に関しては、板積鎮  的ではあるが遠珂鎮所説を否定された。しかしこれもまた論拠たり’はすでに政府軍が制しており、広嗣軍は鎮そのものには到達してい  えないと思われる。続紀には「広嗣於遠珂郡家造軍営」とあること ない。従って広嗣側からみた鎮所とは鎮の近辺芝解すべきである。   は既に再三述べてきたが、「軍営」は軍防令にある立派な律令用語 具体的には板慣河西岸への到達を意味している。   である。明らかなる反乱軍の拠点を律令用語をもって「軍営」と称  以上、鎮所とは板積鎮(近辺)であり、鎮所未到とは板積河西岸   する以上、「鎮所」の語を反乱軍側に用いても不思議はない。    への結集状況であることを明らかにしえたと思う。    以上、栄原、長両氏の論拠では久米説を否定しえないと思われる。 ⑤ 鎮所未到  板積鎮を鎮所とするには別の論拠が必要である。          では「鎮所未到」の時期及びその後の状況はどうか。栄原氏は九   鎮所の語は他に天平六年出雲国計会帳と陸奥国におけるそれとが 月二十日以前であり、かつ間もなく綱手軍は合流したとされる。鎮  知られている。前者は天平四年八月山陰道他四道に設置された節度 所を板積鎮とするかぎり(氏も板積としている)その時期は三鎮陥 樹使の・石見国における滞在地と考えられ缶後者は陸奥鎮守府の前落前ではあり得ないことは既に述べた。合流はありえたか。再三述  身であるとするのが通説であったが、近年論議が高まり、第一線の べる如く「鎮所未到」が合戦直前の状況であれぽ合流は行なわれな 秀前進基地とみる見解、鎮守府およびその支配の及ぶ行政範囲とみる かったと解す以外にない。合流説の根拠は合戦時広嗣軍の員数と進 條羅ぱ纏 籠蘇婿鱗竃竃籔罐翼霞灘四纏曇㍊議繍露繰6 北軍等、中央から派遣された軍事指揮官ないし軍政官の駐留すべき地 後道をとろうが、日田から山国川に沿い吉富町へ出る道をとろうが、   として使用されているのは明らかである。そして広嗣の乱における それよりは田河道を往く古麻呂軍の方が、よほど板積には近いので   政府軍は板積鎮を主たる軍営となしたことは史料Cによって明白で ある。古麻呂軍がそっくり行方不明にでもならない限り、もし合流   ある。従って鎮所とは三鎮の総称でも遠珂軍営でもなく、板積鎮こ があったとすれぽ田河道経由古麻呂軍であろう。而して多理志佐が  そがふさわしいと考えられ、それは多理志佐の証言内容を合戦直前  「不知所率軍数」と語っていることは、(それが続紀編者の注では   の状況とする立場とも合致するのである。ただし、鎮所の語の使用 ないかぎり)古麻呂軍が合流していないことを示すものである。即  が反乱軍側から述べられていること、板積鎮は政府軍の手中にあ.ち圭目木魂氏の記す如く板積河のA.戦は広嗣軍単独で行なわれた.」   たことについては二三口触れておく必要がある。前者はあたかも広嗣 とになる。  側が鎮所の語を使用したかにみえるが、実際は多理志佐の証言を大  ところが、その場合は「広嗣の衆が一万余騎であること」と符合  野東人が報告したのであり、かつ続紀編者の手が加わっていること しなくなる。進発時に五千人であった広嗣軍が、三鎮陥落、豊前郡   を考慮すれば、多理志佐が鎮所の語を使用したとみるよりは、政 司離反という不利な情勢の中、人数を倍増しうるものであろうか。無      理といわざるをえない。となれぽ一万という数に問題があるのか、 よりの進発」と「鎮所への集結」という一見異なったベクトルの整      やはり合流があったのか、どちらかにならざるをえまい。     合的解釈がなされていない。三鎮防備であれ奪回であれ、三道に分       前者は佐伯常人、阿譜触麻呂の報告をうけて大野東人が奏上文を かれ三鎮へ向ったと思われる三軍が、いかなる目的の下に板積鎮所      したためた中の数である。その間に誇張が生ずる余地は大いに存す へ結集しなくてはならなかったのか。先行諸説にはその説明はない。      る。政府軍は六千余人であった。それに倍する反乱軍をさしたる戦  史料Cをみるかぎり佐伯常人、阿倍虫麻呂に率いられる隼人並軍      闘なしに口説をもって離散せしめたとあれぽ、その功は弥増の印象 士四千余人は、板積鎮をめざして渡海したと解される。板積鎮はお      を与えるであろう。あるいは、一万という数は多理志佐証言の広嗣、 そらく到津駅をのぞみ大宰府へ通ずる官路を掌握する要地であった      綱手両軍の計に等しいだけに、多理志佐証言より合成された数とみ ろう。従ってこの地を制することは反乱軍政府軍双方にとり重要な      ることも可能である。一万という数には余り拘泥しない方がよいの ポイントだったことは疑いない。しかしそれだけではなお不十分で    察ではあるまいか。                     ある。他の二鎮に比してより重要であるとの証明は未だなされてい    膀ではA・流の可能性はどうか。綱手、古麻呂両人が未到であることない。ここで会戦時の描写を検討してみよう。広嗣は勅使佐伯常人    @驚働鷲購梵熟鞠蕊駅翼鷲轄肌驚難鷲齢⇔誘籔擁鰭設籠竃 7    し,  嚇とにかかわってくる。                    已上 何故発兵押来」と詰問し、広嗣は弁答しえずして却還した結    繭⑥三軍進発 、        果、続々と投降者が出、広嗣軍は総崩れとなったのである。勝敗の^   @願ノ晶露舞罐彗麟転熟㍍れ㌔溺踏鞠麟磨劇嬬託鴇⇔鵠雛巳誤整恒蒜㌘ピ詩郵      に長氏が指摘する如く、十月六日ごろと想定される板積河会戦時に になる。      未到では、その間四十日近くかかった日数の解釈に苦しむ。そのた  この召換命令は広嗣以下主だった連中の手に渡っていたにちがい      めであろう栄原氏は続紀に記されていない多理志佐証言の後半部分 ない。そうでなければ「何故発兵押来」との詰問にスゴスゴ引き下      を推理し、綱手軍の三鎮陥落前鎮所到達を想定された。しかしそれ るはずがない。広嗣は一方に武力をもって押し渡る意図をいだきつ      は成立しえないこと前述の如くである。ひるがえって小田富士雄、 つ、一方に反乱の意図のないことを説明せんがため、召換された地、      長両氏による三鎮奪回のための進発説はどうであろうか。たしかに 即ち政府軍本営のおかれた板積鎮所に軍勢を進めたのではあるまい      魅力的ではあるが、小田氏は論拠を示さず、長氏は周防灘沿岸郡司 か。その中途半端ゆえに、一面、万という(疑問はあるが)軍勢を      層の離反という大きな誤算に直面した広嗣の建て直し策とするが、 集結させることが可能であり、同時に論破されたことによりほとん    29 やや抽象的である。加えて両氏を含む先行諸説においては、「三道 ど戦わずして離散してしまったのであると考えられる。奪回にせよ 30 @防備にせよ三鎮に三軍を進発させながら、板積鎮所への集結を図る ったーのが実状であったと考える。   という一見方向的には矛盾とみられる行動は、右の如く解すること ⑦ 板積河畔結集   により理解されうると思われる。そして三軍進発の時期は召換命令  以上により三軍進発は三鎮陥落、政府軍准藍後とみるべきである。   の発せられた時以後とすべきであろう。而してその時期は、政府軍 それでは三軍進発の目的及び結果はどうであったか。単に板積鎮に   が板積に本営を構えた時期以後、即ち三鎮陥落後となると思う。  向けて結集するためであったのなら、ことさら三道に分け(特に豊    三軍進発が挙兵当初でなかったことは、反乱軍の兵力構成からも 後国を経由して)進発する必要はない。先行諸説が時期及び経路に   類推し得る。進発時の兵力は広嗣軍五千、綱手軍五千と記されてる ついては見解を異にするものの、全て一致して三鎮をめざしたとす   が、兵力不明の多胡古麻呂も同程度の兵力を有したであろうことは るのもその故であり、筆者においても異論はない。そして三鎮陥落   想像に難くない。さすれば少なくとも一万数千の軍勢を動員したと 後の進発であれぽ、小田、長両氏の説く如く三鎮の奪回ないし状況   考えられるが、弘仁四年官符にみられる三前三後の兵士は計一万七 たて直しが目的であったろう。しかしそれが成功しなかったのは明 樹千一百人であ在咽)また天平宝字五年西海道節度使吉備真備任命に際 らかで、その原因は豊前郡司層の離反にある。豊後国経由、田河道   して検定された筑前、筑後、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩 経由がどのコースを辿ったにせよ、離反郡司勢力圏の真只中を通る、 秀八国の兵士は元二千吾人であることよ仁囑)西海道兵士総数竺ことになる。広嗣側は強行突破可能とみての進発であ.たろうが、 廉万五丁二万程度であ三ろうこと饒に指摘されてい毒従って結果は鎮所未到」の証頭に示されるとおりであった.しかしながら 8 口輔竃㏄鷲鷲擁竃ほ籔㌶霞鷺雛㌶蘇鮭鷲運語澆霞擾竃   嗣挙兵の報に接した政府は即座に(おまかにも素早く遠)勅を以って 問とした「合流」も、かく考えるならば可能であり、一万という数   東海、東山、山陰、山陽、南海五道の軍一万七千人を徴発せんとし も誇張はあるにせよ合理的に解釈しうる。いささか推測にすぎるか   たが、たとえ軍団制廃止の時期であったにせよ、九月二十二日の渡 もしれないが板横河会戦での広嗣軍の構成をかく想定しておきたい。   海には四千人、十月六日ごろに想定される板積河会戦においても、   六千余人しか結集しえなかったのである。他の二鎮防備及び大将軍      四、まとめにかえて   大野東人の手元に残る兵力をいれても総数一万に満たないのが政府   軍の実状であったろう。政府軍にしてこの有様であれば、広嗣がど  以上、多分の推測を交えつつ広嗣の行動軌跡を追ってみた。政府   のような準備をし・どのような名臨津よって召集したにせよ、全西 軍の活動、板積河会戦以後の広嗣に関しては、三鎮攻略の件を除い   海道兵士に匹敵する員数を挙兵時に用意し得たとは思えない。九月 て栄原氏の整理に異存はない。結果として先行諸説に拠りかかり、   中旬に至っても遠珂郡家にて兵を徴発しているーせざるを得なか 些細な言質をとらえ、すでに指摘されている事象を追認するにとど   まったかもしれない。しかし広嗣の乱が多彩な内容を有し、単に八    のち「律令時代の国防と峰燧の制」と改題し『律令諸制及び令外官の   世紀政治史上の一事件にとどまらず、橘諸兄政権論、大宰府の管内   研究』一九六七年に所収。)   支配権、天平期の軍制及び大宰府の軍事権、九州各地域と畿内政権   10 9滝川論文および日本思想大系『律令』補注 との関連等々から北部九州と新羅との関係にまで論が及んでいるu九訓鐸雄「上代における大宰府と豊}別」(『九州史学二。一   現況においては、乱の経過の確定あるいは生起する諸問題の指摘な   12 『続日本紀』同日条   どは、なお、無意味ではないと思う。あえて小稿を草するに至った   13 久米邦武『奈良朝史』一九〇七年   次第である。諸賢の御批判を賜われぽ幸いである。         14栄原「前掲論文」五一九頁                                      15 渡辺正気氏の御教示による。    1 広嗣の乱を主題とした論文は北山茂夫「七四〇年の藤原広嗣の叛乱」   17 早川庄八「天平六年出雲国計会帳の研究」(坂本太郎博士還暦記念 噸㌔雛竃籠殼88鷺詑竃鷲賢許躰竃轄口鮎麿)つい†三東北婁料館研 礎   いる。それらについては後掲栄原論文に委ねる。            究紀要』六 一九八〇年) 喧2坂本太郎「藤原広嗣の乱とその史料」(高柳光寿博士頚寿記念『戦 日現在の板櫃川は北九州市小倉北区愛宕と板櫃町との間を流れ晶港 9 蹴3乱戴堅離巖鷲離ゴ糞甦籠上 鷲竃霞竃齢鱗編露㌔纏鷺 螂甦建畔↑誌嘉㌶遠‥運三九州史学』七㌶軽誤鋲雛難に㎝鷺竃藷    4 史料Eによる来帰郡司兵力は六百五十人以上となる。         から五位以上官人が使用したと推定されているが、興味をひく発見で    5 丸山二郎「藤原広嗣の乱と鎮西府」(『歴史教育』三-五 一九五    ある。(北九州市埋蔵文化財調査室『埋蔵文化財調査室年報1』昭和     五年)、竹尾幸子「広嗣の乱と筑紫の軍制」(『古代の日本』3九州     五十八年度 一九八五年)。一方、旧板櫃川東岸五、六百米の所には、      一九七〇年)、平野邦雄・飯田久雄『福岡県の歴史』一九七四年など。    後世小倉城が築かれているが、板積鎮の候補地としても参考になる。    6 横田健一「天平十二年藤原広嗣の乱の一考察」(『律令国家の基礎   20 前掲竹尾論文、青木和夫『奈良の都』(中央公論社版『日本の歴史』     構造』一九六〇年、のち同氏『白鳳天平の世界』一九七三年所収)。    3 一九六五年)などには地図化されている。    7 『類聚三代格』巻十八                      21 長洋一「前掲論文」    8 反乱軍の大部分は隼人であるとの説もあるが(卯野木盈二「藤原広   22 青木和夫『前掲書』     嗣の乱と隼人」『九州史学』一六、一九六〇年)疑問。ただし広嗣が   23 続紀十月九日条を検ずるかぎり、大野東人は会戦に参加していない。     隼人軍に寄せた期待度は別問題である。                24 注7                            ・ 31 @  9 滝川政次郎「上代蜂燧考」(『史学雑誌』六一-一〇 一九五二年1   25 『続日本紀』天平宝字五年十一月丁酉条 32 @  26 竹尾幸子「前掲論文」    27 この時期、筑紫防人は停止され(『続日本紀』天平九年九月癸巳条)     本郷に帰されている(「周防国天平十年正税張」)。    28 政府側は反乱を予期し、むしろ挑発したのではないかとの坂本氏の     指摘さえある(注2「前掲論文」)。    29 広嗣がいかなる名目の下に、いかなる権限をもって兵を徴集したの     かは、あらためて検討されねばなるまい。 樹   〔付記〕本稿は一九八七年度九州史学研究△芙会(一九八七・十・ 十八 於 九州大学)にて「藤原広嗣の乱の再検討」と題して口頭 発表した中の一部である。席上御助言を賜った会員諸氏に感謝の意 を表したい。 秀 條 10 北